「悲しくてやりきれない」が胸に染みたね
いつも書き出しと最後につけるタイトルに手こずる。それがブログのメンドくさいとこですね。
私がエビゾーなら敬礼の写真で何とかなりますけど。
叶姉妹ならオッパイかお尻出しますけど。
何もウリがありません。
ま、そんなに読者もいませんし、何も気負うことはありません。
お尻までも出す必要も需要もありません。
ちっ。
最近の嬉しい(恥ずかしい)ニュースと言えば、
大橋トリオの新譜に特典として付いていたLIVEドキュメントDVDに、めっちゃ映ってた(笑)。
嬉しそうすぎる私。
いやもう嬉しい楽しい時間だったでしょう。
震災直後でしたけれどもね。
この後の、サプライズ的な「悲しくてやりきれない」の歌唱でオーディエンスほぼ全員号泣でしたけれどもね。
あの時は、みんな泣きたかったんだよ。
やっと泣けたんだよね。
でもそーゆーの、
「悲しみに寄り添う」とか言わないでよ。
なんか最近(いや元々)、言葉にビンカンです。
「気づき」とか「学び」とか言わないで。
いや言うのは勝手ですが、私は言わない。
安っぽいから。
「たくさんの気づきがあった」
とか言ったり書いたりすることで、何かできたような気持ちになってる人、多くないですか。
だいたい「気づき」て何ですか。
「気づいたことがたくさんありました」
ではどーしていかんのですか。
「気づきがありました」
「学びがありました」
なーんか尤もらしいけど、
嘘くさくないですか。
何に気づいたか言えよ。
何を学んだか言えよ。
と、誰にともなくツッコんでみたりするチマタの小姑でございます。
気づきがあった、なんて言うやつは、デザートのガトーショコラ俯瞰で撮ってインスタにあげてろ。
カフェオレ俯瞰で撮っとけ、っていう小藪さんのパクリです。