のりしろとのびしろは似てるけどだいぶ違う

のりしろと脚注のはざま

のりしろとのびしろは似てるけどだいぶ違う

私はアダルトチルドレンだったのだと思う

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思春期から20前半くらいまでの私のキーワードは「モラトリアム」と「アダルトチルドレン」 だったと思う。

不幸だったとは思わないが、とても心が不自由だった。不安でいっぱいで自信のない、そのくせ尊大な、嫌な娘だったことだろう。

自分のことを、モラトリアム人間とかアダルトチルドレンだと認識できたことで、当時の私はずいぶん救われた気持ちになったんだと思う。

 

先日同年代の友人と福岡で会ったとき、中島敦の「山月記」の話になった。彼女は高校の国語の教科書で最も感銘を受けた小説が「山月記」だと言う。私も同感。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心のあまり、強く望んだ官吏にもなれず、孤高の虎となった主人公。漢文の読み下し文のような硬さも心地良かったのだが、その後長いこと(案外今でも)、心が折れる山月記の虎を思い出したりする。「みんな自分の内なる『山月記』と闘っているのよ」と尤もらしく言った気がするが、みんながみんな「山月記」に共感はしないだろうし、いまどき「山月記」読む若人はおるんだろうか。

ま、自分の今の仕上がりにそれほど悔いるところはないんだけれど、学齢期にもう少しスクスクと、メンドくさくない思考と環境で生きられていたら、私はもう少し違うふうに伸びていたんだろうなぁ〜、と思ってみたりする。

それは後悔とか恨みごとではなくて、当時の自分がちょっと不憫なだけ。
やりようによってはそんなに難しくなかったことが、当時の自分には途方もなく高い山に見えたし、絶望たるや這い上がるすべもない深すぎる谷底だった。大げさでなくそう思っていただろう。

何とかなったはずのことをたくさん諦めたかもしれない。
それはもちろんタラレバの話だし、そんなこんなあっての今の自分なんだから、コレでいいのだと思ってるけどね。

しかしそういう、逡巡の連鎖は断ち切れるものは断ち切っていくべき。誰の得にもならないから。少なくとも自分の身内にはそう伝えていきたいと思っている。

 

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